2016年8月 2日 (火)

箱館戦争

 

1868年、旧幕府による江戸城無血開城により、新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封という厳しいものであった。

 

これにより徳川家は約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地(現在の北海道)に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策する。

 

近藤を失った新撰組は、土方が島田魁ら数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府軍と合流し、北へ北へと転戦し、仙台で榎本武揚らと合流すると、蝦夷地に渡った。

 

蝦夷地を本拠とする松前藩は、新政府軍に付いていたので、旧幕府軍は松前藩に対して降伏勧告の使者を送るが殺された。

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旧幕府軍は箱館の五稜郭を占領後、土方歳三を総督として彰義隊・額兵隊・衝鋒隊などからなる700名が松前城に到達すると、数時間で落城する。

松前兵は城下に火を放ち、江差方面へ敗走した。

 

 

その後、五稜郭を本陣に旧幕府は榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」を成立し、土方は大幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねた。

 

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186949日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。

 

土方は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦し連戦連勝を重ねるが、土方軍が死守していた二股口とは別の松前口が突破され、敵に逃げ道を塞がれる危険性が出たので、土方軍はやむなく二股口を退却し、五稜郭へ帰還した。

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1869511日、新政府軍の箱館総攻撃が開始される。

これによって、京都時代から土方になついていた新撰組の島田魁らが守備していた弁天台場が、新政府軍に包囲され孤立してしまう。

 

土方はわずかな兵を率いて出陣、箱館一本木関門まで来ると、敗走してくる味方に対して「退く者を斬る!」と一喝し、鬼神のごとく戦うが、銃弾が土方の腹部を貫き落馬する。

 

側近が駆けつけた時にはもう絶命していたという。

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 土方歳三

 


その6日後、蝦夷共和国は新政府軍に降伏する。

 

榎本武揚や大鳥圭介は投獄の後に、新しい時代に必要な人材として政府要職に就く。

 

明治政府は、新選組隊士の遺族らに遺品の所有を禁じた。

 



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局長・近藤の死

江戸に戻った新撰組は、旧幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改めて、甲州街道から甲府城を目指して進軍するが、その途中、甲州勝沼の戦いにおいて新政府軍に敗退する。

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再び江戸に戻った新撰組は、今後の方針で意見が対立し、試衛館以来の仲間である永倉新八、原田左之助が隊を離脱した。

 

 

近藤・土方は隊を再編成し、再起をかけて下総国流山(現在の千葉県流山市)の光明院・流山寺に分宿して長岡七郎兵衛宅を本陣とし、越谷に本陣を置いていた新政府軍の背後を襲う計画を立てる。

 

しかし、新撰組は武装準備不十分の状態で新政府軍に包囲された。こ新政府軍はこの時点では武装勢力を不信に思っていただけで、それが新撰組とは気付いていなかった。

 

新政府軍は薩摩や長州といった新撰組が京都で取り締まった者達が占めているため、新撰組であることが発覚するかしないかで、隊士もろもろの処遇が大きく変わる状況となる。

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 近藤勇

近藤は意を決して単身、新政府軍に出頭し、自らを「大久保大和」と名乗り、武装組織が新撰組とは無関係であることをアピールするが、ところが、新政府軍の中に、かつて新撰組が暗殺した伊東甲子太郎の御陵衛士であった加納鷲雄、清原清がため、新撰組の局長・近藤勇であることが発覚してしまう。

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結果、近藤は、板橋刑場で斬首され、その首は京都の三条河原に晒された。

 

 

 

同じ頃、沖田総司は持病だった肺結核により江戸にて死亡、彰義隊に加入していた原田左之助は上野戦争で戦死。

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新選組は「宇都宮城の戦い」「会津戦争」などに参加するが、会津では斎藤一らが離隊。

 

 

 

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鳥羽・伏見の戦い

 

1867年、新選組は会津藩預かりから隊士全員が幕臣となり、近藤は三百俵旗本となって、幕府代表者の一員として各要人との交渉を行うほどに出世し、新撰組は最も輝かしい時を迎えるが、同時に時代の波は新撰組の思惑とは逆方向に進み出す。

 

1867119日に将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上し、186813日には岩倉具視らによって王政復古の号令が発して徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定し、明治新政府が樹立する。

 

こうして徳川幕府は政治の実権を完全に失うことになった。

 

 

どう好意的に解釈しようとしても暴虐で挑発的な薩摩藩に対して、徳川慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり、慶喜は討薩を発表し、京都封鎖を目的とした出兵を開始する。

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旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進む。

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この「鳥羽・伏見の戦い」で新撰組は、局長・近藤勇が御陵衛士(高台寺党)の生き残りによる銃撃に遭って重傷を負ったため、副長・土方歳三が指揮を執ることになった。

 

 

当時の新撰組や会津藩の装備には薩長のような最新鋭の銃器はなく、刀や槍を中心とした白兵戦を行わざるを得ない状況で、2番隊隊長・永倉新八らが唯一敵陣への斬り込みに成功したほかは、井上源三郎が戦死するなど、敵の銃砲火の前になすすべなく、伏見奉行所が炎上すると、退却を余儀なくされる。

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 土方歳三

さらに、将軍・徳川慶喜が、戦場で奮戦する兵士を置いて江戸へ退却し、旧幕府軍は完全に崩壊した。首脳部の解散命令を受け、新撰組は榎本武揚が率いる幕府軍艦・富士山丸に乗船して江戸へと引き上げた。

 

 

「鳥羽伏見の戦い」が始まる前は150160名ほどいた新撰組隊士は、多くの戦死者のみならず戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱走したため、江戸で再び結集すると40数名にまで減る。

 



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新撰組のインテリ部門

池田屋事件での大活躍と禁門の変への参加で、新撰組は朝廷・幕府・会津藩から感状と200両余りの恩賞を受けると、18649月に第二次の隊士募集を行い、さらに近藤が江戸へ帰郷した際に才能豊かな伊東甲子太郎らを入隊させた。

 

伊東はそのインテリさを高く買われ、土方、山南と同格扱いの参謀という役職を与えられる。

 

新選組は200名を超す集団へと成長し、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転する。

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新撰組の頭脳として存在感を持っていた山南は、インテリ部門に自分よりも重宝される存在が出来たことによって、徐々に隊内での働き場所を失っていった。

 

日に日に孤独感を募らせていく山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残して行方をくらませる。

 

隊規の局中法度で脱走は死罪と決まっており、近藤と土方は、隊の規律を示すためにも、すぐに沖田を追っ手として差し向けた。

 

 

近藤と土方が沖田一人だけを派遣するという不可解な指示を出した背景については、様々な憶測がされているが、山南と沖田が非常に仲が良かったため、沖田が山南を見逃し、その目撃者が誰もいないという状況を作りたかったのではないかと考えられている。

 

 

しかし、結果的に沖田に追いつかれた山南は、そのまま新撰組屯所に戻り、正式に切腹を命じられた。

 

死にのぞむ山南の姿勢はかくも美しく、その姿に対して近藤は、自身が大好きな忠臣蔵を引き合いに「浅野内匠頭でも、こうは見事にあい果てまい」と賞賛する。

 

介錯は山南たっての希望により、最も仲が良かった沖田が務めた。

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山南に代わって新撰組のインテリ部門を担うようになった伊東であるが、近藤と時局を論じ合った際に、徳川幕府あっての尊王攘夷という考えを持つ近藤に対して、伊東は孝明天皇の衛士になることを主張したため、近藤は伊東らの分離を警戒する。

 

近藤の予想通り、18673月、伊東は新撰組から分離した御陵衛士を結成して脱退。

 

伊東ら御陵衛士は、近藤の征長論(長州は征伐するべき)に対し、長州寛容論(長州を征伐する必要はない)を主張した。

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 伊東甲子太郎


186711月、近藤は国事議論を目的に伊東甲子太郎を呼び出し、大石鍬次郎らに伊東を暗殺させる。

さらに他の御陵衛士たちを誘い出して夜襲し、伊東について行った藤堂平助(藤堂は伊東の道場の弟子だった時期があった)も殺害された。

 

 


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禁門の変

 

18648月、京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・松平容保(京都守護職)らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げる。

 

畿内における大名勢力同士の交戦は大坂夏の陣(1615)以来であり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失する大事件であった。

 

大砲も投入された激しい戦闘の結果、長州藩勢は敗北し、尊王攘夷派は真木保臣ら急進的指導者の大半を失ったことで、その勢力を大きく後退させることとなった。

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新撰組は、この禁門の変に備えて、伏見からの侵入ルートとなる竹田街道を警備するため、会津藩ととも一か月にわたり鴨川の九条河原に陣を敷く。

 

この時、山南敬介は病のために、沖田総司は池田屋事件以後体調がすぐれなかったため、参加していない。

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 近藤勇

戦闘が開始されると、新撰組は200名の隊士を率いて参戦するが、戦闘区域に応援に駆け付ける度に、すでに戦闘が終わっており、新撰組は残党狩りに終始し、目立った活躍をすることは出来なかった。

 


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池田屋事件

 

幕末の京都は政局の中心地で様々な政治思想を持つ諸藩の浪士が潜伏して活動していた。

  

18645月下旬頃、山崎丞・島田魁らによって炭薪商を経営する古高俊太郎の存在を突き止められ、武器や長州藩との書簡等が発見される。

 

古高を捕らえた新選組は、土方歳三の拷問により自白に成功した。

 

自白内容は「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へと誘拐する。」というもの。

 

さらに、長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王派が古高逮捕をうけて、計画の実行・中止について協議する会合が、池田屋か四国屋において行われる事を突き止めた。

 

 

 

186465日、新撰組は近藤隊と土方隊に分かれ捜索を開始、22時頃、近藤隊は池田屋で会合中の尊攘派志士を発見する。

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20数名の尊攘派に対して、踏み込んだのは近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で、残りは屋外を固めた。

  

屋内に踏み込んだ沖田は奮戦したが、戦闘中に持病の発作が起きて倒れる。

 

藤堂は鉢金を締め直そうとしたところを斬りつけられ、額を斬られ、血が目に入り戦線離脱。

 

 

尊攘派志士達は応戦しつつ、現場からの脱出を図り、土佐藩脱藩・望月亀弥太は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びたが、追っ手に追いつかれ自刃した。

 

脱出に成功した土佐藩・野老山吾吉郎の調書では、同僚の石川潤次郎が現場で闘死していた事にも気付いていなかった事が分かり、いかに戦闘が激しくパニック状態だったかが分かる。

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 近藤勇

新選組側は近藤・永倉の2人だけで奮戦する状態が続いたが、土方隊が到着すると戦局が一気に有利に傾いたことから、戦闘方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更。

 

 

土方は手柄を横取りされないように、会津藩と桑名藩の者達を現場に一歩たりとも近づけさせなかった。

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 土方歳三 


この戦闘で数名の尊攘派は逃走したが、続く翌朝の市中掃討で会津藩・桑名藩・彦根藩と連携して20余名を捕縛するが、この市中掃討も激戦となり、会津藩は5名、桑名藩は2名、彦根藩は4名の即死者を出す。

 

翌日の正午、新選組が壬生村の屯所に帰還すると、沿道は野次馬であふれていたという。

 

桂小五郎(後の木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたので、時間潰しにいったん池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、この難を逃れた。

 

御所焼き討ちの計画を未然に防ぐ事に成功した新選組の名は天下に轟く。

 

 


反対に尊攘派は、吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助らの逸材が戦死し、大打撃を受ける。

 

池田屋事件により逸材たちが落命したことにより、明治維新が1年遅れたとも、逆に尊攘派を刺激してしまい逆に維新を早めたともいわれる。

 

 


長州藩はこの事件をきっかけに、激高した強硬派に引きずられる形で「禁門の変」を引き起こした。

 


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新撰組誕生

1862年、江戸幕府は清河八郎(庄内藩郷士)の案を受け入れ、将軍・徳川家茂の京都訪問の際、将軍警護をする浪士を募集する。

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 清河八郎

浪士隊募集の話をきいた近藤は、なにかのキッカケになるのではと直感し、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人で参加を決める。

 

浪士隊募集に、集まった200名余りの浪士たちは将軍の京都訪問に先がけ「浪士組」を成し、中山道を進む。

 

京都に到着後、清河が勤王(天皇に忠義を尽くす)勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとしていたことが発覚する。

 

協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。

 

これに対し近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張。

 

 

その頃、京都守護職を務める会津藩(伝統的に幕府と縁が深い)の藩主・松平容保は、京都の治安維持のための浪士を手配しようとしていた。

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松平容保

近藤達は会津藩にその役目を名乗り出て、京都守護職の松平容保(会津藩主)から、主に不逞浪士の取り締まりと市中警備を任され、壬生村(現在の京都府京都市中京区)の八木邸や前川邸などを屯所とし、新選組の前身である「壬生浪士組」が結成される。

 

しかし、すぐに壬生浪士組は、試衛館出身者による近藤派と水戸出身者の芹沢派の確執が色濃くなっていく。

 

18634月、大坂の両替商平野屋五兵衛に100両を提供させ、これを元手に隊服、隊旗を揃える。

 

18636月、道ですれ違った大坂相撲の力士が、道を譲らなかったことに芹沢鴨が激昂して、乱闘になり殺傷した。

当時の常識的な感覚として、侍に道を譲らないことが無礼なのは確かであり、奉行所は力士側に非があると判断し、力士側は壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れる。

 

 

18638月、壬生浪士組は八月十八日の政変の警備に出動し、その働きを評価され、新たな隊名「新選組」を拝命した。

 

さらに新撰組の栄枯盛衰を良くも悪くも左右する局中法度という隊の決まりが作られる。

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 沖田総司


近藤と土方は、この局中法度をもとに芹沢派の新見錦を切腹に追い込み、18639月、市中で乱暴狼藉を働き新撰組の評判を落とす芹沢鴨を派閥争いも絡んで暗殺した。

同時に平山五郎も暗殺、平間重助は脱走、野口健司は12月に切腹となる。

 

 

こうして芹沢派は完全に一掃され、新撰組は近藤勇主導の隊になる

 




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新撰組が生きた時代

まず、江戸時代の徳川将軍は日本の統治者として君臨していたが、形式的には天皇から将軍が政治権力を預かっている状態である。

つまり、天皇の権威によって、権力を将軍に貸しているということ。

 

次に、幕末に度々登場する「尊王攘夷」とは、天皇を尊び(尊王)、外国勢力を討つ(攘夷)という思想で、幕末期のあらゆる勢力が、基本的には尊王攘夷である。

さて、当時の世界は、欧米列強のアジア進出により、アジア人達は欧米人に牛馬のごとく扱われ、財産と労働力を好き放題に搾取されていた。

 

そんな欧米の進出に抵抗する気運が日本国内で高まっていく。

 

そのため、天皇の朝廷は、長年続けてきた鎖国体制を維持する考えであった。

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一方、徳川幕府は黒船来航などにより外国の圧倒的な軍事力を目の当たりにしたので、朝廷の意に反して、開国路線を選択するようになる。

 

 

そこに付け込もうとするのが、薩摩藩(現在の鹿児島県)や長州藩(現在の山口県)といった徳川幕府に代わって権力を手にすることを狙う勢力であった。

 

弱腰外交の徳川幕府が天皇の意に反したと、尊王論を煽り、徳川幕府では政権運営能力不十分という声を高めていく。

 

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しかし、薩摩も長州も薩英戦争や下関戦争などで外国との軍事力の差を認識すると、非現実的な攘夷論は消えていき、開国論に転じていった。

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結果、もともと徳川幕府が「近代化を優先して、外国との交易によって富国強兵を目指し、欧米に対抗できる力をつけた後に攘夷を決行する。」という、鎖国維持を訴える天皇を説得するための方向性を、薩摩や長州といった倒幕派も採用するようになり、徳川も薩摩・長州も意見や主張は完全に一緒になる。

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岩倉具視

一方、もともと朝廷内は徳川支持が主流派であったが、倒幕派の下級公家の岩倉具視らの画策により、朝廷内から倒幕の声が急速に強くなっていく。

 

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徳川慶喜

危機を感じた15代将軍・徳川慶喜は、1867119日、朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上し、徳川幕府が消滅する。

これを大政奉還という。

徳川慶喜が大政奉還に踏み切った理由は、武力倒幕を望んでやまない薩摩・長州から攻撃の口実を奪うためであった。

権力を返してしまえば、政権運営能力がないという口実は消滅する。

そうして薩摩・長州との武力衝突を避け、天皇の意志に任せ、合議のうえで改めて徳川主導の国家体制にすることを徳川慶喜はねらっていた。

 

 

徳川慶喜の思惑は順調に成功しつつあったが、186813日、倒幕派の下級公家の岩倉具視らは、徳川びいきの朝廷首脳を排除し、徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定させる。

 

これを王政復古の大号令という。

 

目的は、明治新政府が徳川主導になることを阻止し、さらに理不尽な措置で徳川勢力の反感を煽って戦争に持ち込み、旧幕府勢力を根絶やしにすることであった。

 

新政府の目論み通り、徳川慶喜は旧幕府勢力の声に押される形で武力衝突を表明する。

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こうして「鳥羽・伏見の戦い」が勃発するが、旧幕府軍は敗れ、この敗北を機に、大勢は一気に新政府軍に傾いていく。

 

このようにして、国内を占めるイデオロギーは「尊王攘夷」一色でありながら、その旗手を徳川が務めるか薩摩・長州が務めるかで、国内が分裂し、さらにそれぞれが天皇の権威を求めたため、幕末の京都は複雑な政争が展開されていた。

 

新撰組は、そんな京都で、反幕府勢力を取り締まるための武装組織である。

京都で活動する不逞浪士や倒幕派の捜索や捕縛、担当地域の警備、反乱の鎮圧などを主な任務とし、同時に、厳しい隊の規則に違反した者を次々に粛清するなど内部抗争も繰り返した。

 

幕末というのは、日本から武士らしい武士がいなくなったと言われて久しい時代である。

そんな時代に、武士らしくあることにこだわった新撰組は、流行り言葉と違う本当の意味でのラスト・サムライなのかもしれない。