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2016年8月 2日 (火)

新撰組のインテリ部門

池田屋事件での大活躍と禁門の変への参加で、新撰組は朝廷・幕府・会津藩から感状と200両余りの恩賞を受けると、18649月に第二次の隊士募集を行い、さらに近藤が江戸へ帰郷した際に才能豊かな伊東甲子太郎らを入隊させた。

 

伊東はそのインテリさを高く買われ、土方、山南と同格扱いの参謀という役職を与えられる。

 

新選組は200名を超す集団へと成長し、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転する。

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新撰組の頭脳として存在感を持っていた山南は、インテリ部門に自分よりも重宝される存在が出来たことによって、徐々に隊内での働き場所を失っていった。

 

日に日に孤独感を募らせていく山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残して行方をくらませる。

 

隊規の局中法度で脱走は死罪と決まっており、近藤と土方は、隊の規律を示すためにも、すぐに沖田を追っ手として差し向けた。

 

 

近藤と土方が沖田一人だけを派遣するという不可解な指示を出した背景については、様々な憶測がされているが、山南と沖田が非常に仲が良かったため、沖田が山南を見逃し、その目撃者が誰もいないという状況を作りたかったのではないかと考えられている。

 

 

しかし、結果的に沖田に追いつかれた山南は、そのまま新撰組屯所に戻り、正式に切腹を命じられた。

 

死にのぞむ山南の姿勢はかくも美しく、その姿に対して近藤は、自身が大好きな忠臣蔵を引き合いに「浅野内匠頭でも、こうは見事にあい果てまい」と賞賛する。

 

介錯は山南たっての希望により、最も仲が良かった沖田が務めた。

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山南に代わって新撰組のインテリ部門を担うようになった伊東であるが、近藤と時局を論じ合った際に、徳川幕府あっての尊王攘夷という考えを持つ近藤に対して、伊東は孝明天皇の衛士になることを主張したため、近藤は伊東らの分離を警戒する。

 

近藤の予想通り、18673月、伊東は新撰組から分離した御陵衛士を結成して脱退。

 

伊東ら御陵衛士は、近藤の征長論(長州は征伐するべき)に対し、長州寛容論(長州を征伐する必要はない)を主張した。

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 伊東甲子太郎


186711月、近藤は国事議論を目的に伊東甲子太郎を呼び出し、大石鍬次郎らに伊東を暗殺させる。

さらに他の御陵衛士たちを誘い出して夜襲し、伊東について行った藤堂平助(藤堂は伊東の道場の弟子だった時期があった)も殺害された。

 

 


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