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2016年8月 2日 (火)

池田屋事件

 

幕末の京都は政局の中心地で様々な政治思想を持つ諸藩の浪士が潜伏して活動していた。

  

18645月下旬頃、山崎丞・島田魁らによって炭薪商を経営する古高俊太郎の存在を突き止められ、武器や長州藩との書簡等が発見される。

 

古高を捕らえた新選組は、土方歳三の拷問により自白に成功した。

 

自白内容は「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へと誘拐する。」というもの。

 

さらに、長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王派が古高逮捕をうけて、計画の実行・中止について協議する会合が、池田屋か四国屋において行われる事を突き止めた。

 

 

 

186465日、新撰組は近藤隊と土方隊に分かれ捜索を開始、22時頃、近藤隊は池田屋で会合中の尊攘派志士を発見する。

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20数名の尊攘派に対して、踏み込んだのは近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で、残りは屋外を固めた。

  

屋内に踏み込んだ沖田は奮戦したが、戦闘中に持病の発作が起きて倒れる。

 

藤堂は鉢金を締め直そうとしたところを斬りつけられ、額を斬られ、血が目に入り戦線離脱。

 

 

尊攘派志士達は応戦しつつ、現場からの脱出を図り、土佐藩脱藩・望月亀弥太は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びたが、追っ手に追いつかれ自刃した。

 

脱出に成功した土佐藩・野老山吾吉郎の調書では、同僚の石川潤次郎が現場で闘死していた事にも気付いていなかった事が分かり、いかに戦闘が激しくパニック状態だったかが分かる。

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 近藤勇

新選組側は近藤・永倉の2人だけで奮戦する状態が続いたが、土方隊が到着すると戦局が一気に有利に傾いたことから、戦闘方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更。

 

 

土方は手柄を横取りされないように、会津藩と桑名藩の者達を現場に一歩たりとも近づけさせなかった。

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 土方歳三 


この戦闘で数名の尊攘派は逃走したが、続く翌朝の市中掃討で会津藩・桑名藩・彦根藩と連携して20余名を捕縛するが、この市中掃討も激戦となり、会津藩は5名、桑名藩は2名、彦根藩は4名の即死者を出す。

 

翌日の正午、新選組が壬生村の屯所に帰還すると、沿道は野次馬であふれていたという。

 

桂小五郎(後の木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたので、時間潰しにいったん池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、この難を逃れた。

 

御所焼き討ちの計画を未然に防ぐ事に成功した新選組の名は天下に轟く。

 

 


反対に尊攘派は、吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助らの逸材が戦死し、大打撃を受ける。

 

池田屋事件により逸材たちが落命したことにより、明治維新が1年遅れたとも、逆に尊攘派を刺激してしまい逆に維新を早めたともいわれる。

 

 


長州藩はこの事件をきっかけに、激高した強硬派に引きずられる形で「禁門の変」を引き起こした。

 


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