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2016年8月 2日 (火)

新撰組が生きた時代

まず、江戸時代の徳川将軍は日本の統治者として君臨していたが、形式的には天皇から将軍が政治権力を預かっている状態である。

つまり、天皇の権威によって、権力を将軍に貸しているということ。

 

次に、幕末に度々登場する「尊王攘夷」とは、天皇を尊び(尊王)、外国勢力を討つ(攘夷)という思想で、幕末期のあらゆる勢力が、基本的には尊王攘夷である。

さて、当時の世界は、欧米列強のアジア進出により、アジア人達は欧米人に牛馬のごとく扱われ、財産と労働力を好き放題に搾取されていた。

 

そんな欧米の進出に抵抗する気運が日本国内で高まっていく。

 

そのため、天皇の朝廷は、長年続けてきた鎖国体制を維持する考えであった。

Kurofune  

一方、徳川幕府は黒船来航などにより外国の圧倒的な軍事力を目の当たりにしたので、朝廷の意に反して、開国路線を選択するようになる。

 

 

そこに付け込もうとするのが、薩摩藩(現在の鹿児島県)や長州藩(現在の山口県)といった徳川幕府に代わって権力を手にすることを狙う勢力であった。

 

弱腰外交の徳川幕府が天皇の意に反したと、尊王論を煽り、徳川幕府では政権運営能力不十分という声を高めていく。

 

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しかし、薩摩も長州も薩英戦争や下関戦争などで外国との軍事力の差を認識すると、非現実的な攘夷論は消えていき、開国論に転じていった。

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結果、もともと徳川幕府が「近代化を優先して、外国との交易によって富国強兵を目指し、欧米に対抗できる力をつけた後に攘夷を決行する。」という、鎖国維持を訴える天皇を説得するための方向性を、薩摩や長州といった倒幕派も採用するようになり、徳川も薩摩・長州も意見や主張は完全に一緒になる。

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岩倉具視

一方、もともと朝廷内は徳川支持が主流派であったが、倒幕派の下級公家の岩倉具視らの画策により、朝廷内から倒幕の声が急速に強くなっていく。

 

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徳川慶喜

危機を感じた15代将軍・徳川慶喜は、1867119日、朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上し、徳川幕府が消滅する。

これを大政奉還という。

徳川慶喜が大政奉還に踏み切った理由は、武力倒幕を望んでやまない薩摩・長州から攻撃の口実を奪うためであった。

権力を返してしまえば、政権運営能力がないという口実は消滅する。

そうして薩摩・長州との武力衝突を避け、天皇の意志に任せ、合議のうえで改めて徳川主導の国家体制にすることを徳川慶喜はねらっていた。

 

 

徳川慶喜の思惑は順調に成功しつつあったが、186813日、倒幕派の下級公家の岩倉具視らは、徳川びいきの朝廷首脳を排除し、徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定させる。

 

これを王政復古の大号令という。

 

目的は、明治新政府が徳川主導になることを阻止し、さらに理不尽な措置で徳川勢力の反感を煽って戦争に持ち込み、旧幕府勢力を根絶やしにすることであった。

 

新政府の目論み通り、徳川慶喜は旧幕府勢力の声に押される形で武力衝突を表明する。

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こうして「鳥羽・伏見の戦い」が勃発するが、旧幕府軍は敗れ、この敗北を機に、大勢は一気に新政府軍に傾いていく。

 

このようにして、国内を占めるイデオロギーは「尊王攘夷」一色でありながら、その旗手を徳川が務めるか薩摩・長州が務めるかで、国内が分裂し、さらにそれぞれが天皇の権威を求めたため、幕末の京都は複雑な政争が展開されていた。

 

新撰組は、そんな京都で、反幕府勢力を取り締まるための武装組織である。

京都で活動する不逞浪士や倒幕派の捜索や捕縛、担当地域の警備、反乱の鎮圧などを主な任務とし、同時に、厳しい隊の規則に違反した者を次々に粛清するなど内部抗争も繰り返した。

 

幕末というのは、日本から武士らしい武士がいなくなったと言われて久しい時代である。

そんな時代に、武士らしくあることにこだわった新撰組は、流行り言葉と違う本当の意味でのラスト・サムライなのかもしれない。

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