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2016年8月 2日 (火)

新撰組誕生

1862年、江戸幕府は清河八郎(庄内藩郷士)の案を受け入れ、将軍・徳川家茂の京都訪問の際、将軍警護をする浪士を募集する。

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 清河八郎

浪士隊募集の話をきいた近藤は、なにかのキッカケになるのではと直感し、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人で参加を決める。

 

浪士隊募集に、集まった200名余りの浪士たちは将軍の京都訪問に先がけ「浪士組」を成し、中山道を進む。

 

京都に到着後、清河が勤王(天皇に忠義を尽くす)勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとしていたことが発覚する。

 

協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。

 

これに対し近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張。

 

 

その頃、京都守護職を務める会津藩(伝統的に幕府と縁が深い)の藩主・松平容保は、京都の治安維持のための浪士を手配しようとしていた。

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松平容保

近藤達は会津藩にその役目を名乗り出て、京都守護職の松平容保(会津藩主)から、主に不逞浪士の取り締まりと市中警備を任され、壬生村(現在の京都府京都市中京区)の八木邸や前川邸などを屯所とし、新選組の前身である「壬生浪士組」が結成される。

 

しかし、すぐに壬生浪士組は、試衛館出身者による近藤派と水戸出身者の芹沢派の確執が色濃くなっていく。

 

18634月、大坂の両替商平野屋五兵衛に100両を提供させ、これを元手に隊服、隊旗を揃える。

 

18636月、道ですれ違った大坂相撲の力士が、道を譲らなかったことに芹沢鴨が激昂して、乱闘になり殺傷した。

当時の常識的な感覚として、侍に道を譲らないことが無礼なのは確かであり、奉行所は力士側に非があると判断し、力士側は壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れる。

 

 

18638月、壬生浪士組は八月十八日の政変の警備に出動し、その働きを評価され、新たな隊名「新選組」を拝命した。

 

さらに新撰組の栄枯盛衰を良くも悪くも左右する局中法度という隊の決まりが作られる。

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 沖田総司


近藤と土方は、この局中法度をもとに芹沢派の新見錦を切腹に追い込み、18639月、市中で乱暴狼藉を働き新撰組の評判を落とす芹沢鴨を派閥争いも絡んで暗殺した。

同時に平山五郎も暗殺、平間重助は脱走、野口健司は12月に切腹となる。

 

 

こうして芹沢派は完全に一掃され、新撰組は近藤勇主導の隊になる

 




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