6.新撰組 (鳥羽・伏見の戦い)

2016年8月 2日 (火)

鳥羽・伏見の戦い

 

1867年、新選組は会津藩預かりから隊士全員が幕臣となり、近藤は三百俵旗本となって、幕府代表者の一員として各要人との交渉を行うほどに出世し、新撰組は最も輝かしい時を迎えるが、同時に時代の波は新撰組の思惑とは逆方向に進み出す。

 

1867119日に将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上し、186813日には岩倉具視らによって王政復古の号令が発して徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定し、明治新政府が樹立する。

 

こうして徳川幕府は政治の実権を完全に失うことになった。

 

 

どう好意的に解釈しようとしても暴虐で挑発的な薩摩藩に対して、徳川慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり、慶喜は討薩を発表し、京都封鎖を目的とした出兵を開始する。

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旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進む。

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この「鳥羽・伏見の戦い」で新撰組は、局長・近藤勇が御陵衛士(高台寺党)の生き残りによる銃撃に遭って重傷を負ったため、副長・土方歳三が指揮を執ることになった。

 

 

当時の新撰組や会津藩の装備には薩長のような最新鋭の銃器はなく、刀や槍を中心とした白兵戦を行わざるを得ない状況で、2番隊隊長・永倉新八らが唯一敵陣への斬り込みに成功したほかは、井上源三郎が戦死するなど、敵の銃砲火の前になすすべなく、伏見奉行所が炎上すると、退却を余儀なくされる。

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 土方歳三

さらに、将軍・徳川慶喜が、戦場で奮戦する兵士を置いて江戸へ退却し、旧幕府軍は完全に崩壊した。首脳部の解散命令を受け、新撰組は榎本武揚が率いる幕府軍艦・富士山丸に乗船して江戸へと引き上げた。

 

 

「鳥羽伏見の戦い」が始まる前は150160名ほどいた新撰組隊士は、多くの戦死者のみならず戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱走したため、江戸で再び結集すると40数名にまで減る。

 



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